佐久野弥景―sakuno mikage―


Quel est ton nom?


「これだけあれば、美夏ちゃんも一つぐらい気に入るのもあるよね」
「一つなんてモンじゃないわよ!きっと一杯ありすぎて迷うわね、あの子」
 あはは、あははと笑い合った。


「ごめーん、みんなの分のココア用意してたら時間かかっちゃって」
 美夏の第一声を聞いて、二人は噴き出してしまった。またも美夏は状況が飲み込めないでいる。
「あははははは、あー、苦し。こりゃ決まりだわ」
「ふふふ、そうだね」
 二人は声をそろえた。
「『ここあ』!!!」
「………?……うん、ココアだよ。飲むでしょ?」
 ゆっくりとラウンドテーブルにお盆を下ろし、その中からやや深い、人肌程度のミルクが入った皿をフローリングに置いた。待ってましたと言わんばかりに、仔犬はミルクに飛びついてぴちゃぴちゃと舐め始めた。
 ココアの入ったマグを両手で包んで一口飲む。尚も京華は微笑している。
「そうじゃなくて、犬の名前よ。ひらがなで『ここあ』。素敵じゃない?」
「そうそう。美夏ちゃんも開口一番『ここあ』だったんだから、それがいいよ。本当はまだ沢山候補あったのになぁ」
 などと言いながらも、功労者・柏崎啓吾は満足げに嘆いて、ピラピラと広告を振る。
「いやっ」
 この時のことを、後の啓吾はこう振り返る。
「いやあ、もうほんと、フリーズとしか言いようがなかったよ。すごかった」
「じゃ、じゃあ、『みるく』なんか、ど、どうかな」
 今のは何かの間違いだわ。と京華は信じたかった。が、
「それもいや。もっと可愛いのがいい。ズズ…」
「もっと、て……アンタねぇ」
「で、でもさ京華、これだけあるんだから一個ぐらい気に入る名前あるよ。ね?」
 ピラピラピラ。
 ……。
 ………。
 …………。
 ……………。
 案の定、京華たちが考案した38個の名前は全て却下されてしまった。
「京華……、僕灰になりそうだ…」
「ケイゴ、あ、あきらめちゃダメよ。絶対私たちが最っ高にいい名前つけてあげましょ」
「そ、そうだね。とにかく頑張ろう」
「そうだよ、頑張ってよ二人とも」
 ミルクを飲み終わり、フローリングに飛び散ったミルクの飛沫(ひまつ)を拭き取りながら美夏がのんきな声を上げた。
「アンタもやんの!」
「……はぁい…っくしゅっ!」
 へえ、珍しく聞き分けいいじゃない。責任感でも芽生えたのかしら。これは案外いい方向に向かうかもねぇ。
「ぐしゅん。ええと……『房江さん』とか?」
 …………………ん?
「誰?房江さん」
「いや、だって、毛がフサフサしてるから『房江さん』………何で?」
 二人は、何と言うか呆気に取られたように美夏を見つめ、『房江さん(仮)』を憐れみ見た。房江さん………。
「……ううん、アンタがいいっていうならいいのよ!ね、ねえケイゴ」
「あ、うん。まあ、いいんじゃないかな」
「うーん、でも何かしっくりこないなぁ。今の無し!」
 言うまでもなく安堵(あんど)の二人。良かったね。房江さん(仮)。
「さて、じゃんじゃん考えるわよ!今日はもう泊り込むわ!」
「うぉー!……ぐしゅっ!」
「あの、僕明日の朝早いんだけど…」
 そう言って立ち上がろうとした啓吾を、京華が引き止めた。
「アンタも泊まってきな」
「そそそ、そんな」
「何?不都合でもあるわけ?」
「あるから言ってるんじゃないかぁ。明日早いんだって〜」
「大丈夫大丈夫。私が起こしてあげるから。一度乗りかけた船なんだから、ちゃんと向こう岸まで付き合いな」
「うう………」
 翌日全員が寝坊したのは言うまでもない。



「名前って案外難しいねえ。ぐじゅじゅ」
 命名会議が始まって二時間して、美夏がポツリとつぶやいた。……いやいや、アンタが難しくしてるだけだよ。
「まあ、命の重さは等しいからねぇ」
 啓吾もポツリとつぶやいた。
「アンタなかなかいいこと言うわね。……そうだ、『命』って書いて『みこと』ってどう?」
「京ちゃん、この仔オス……」
「もう!いいじゃないそんなこと!大体アンタは何でそういうところだけまじめなの?名前なんて適当でいいじゃない。要は、アンタがその仔をどれだけ大切に思ってるかでしょ?」
 コクリ。
「それで、アンタはこの仔のこと、すっごく大事なんでしょ?」
 コクリ。
「もちろん、だからこそ凝った名前を付けてあげたいっていうのは分かる。けど、どれだけカッコいい名前付けたって、どれだけカワイイ名前付けたって、気持ちがこもってなきゃ!そうでしょ?」
 コクコク。
「それにね、もし途中でいい名前思いついたら変えちゃえばいいじゃない?人と違ってペットならどこにも名前を届ける必要なんて無いんだから。」
「……わかった。くしゅん。じゃあ、とりあえず最初の『ここあ』にする……」
「そう……」
「あー、よかった。これで帰れる。明日ちゃんと時間通り行ける」
「ああでも、さっきから外すごい雨よ」
 窓越しに外を見る一同。
 ザーーーーー。ザザーーーーー。ザザザザーーーーーーーー。
「………な、何とかなるさ。じゃ、また今度」
「うーん、頑張ってね」
「風邪引くなよぉ」
 ギィィイイィ、バタン。
「京ちゃん、雨、よく降るねぇ」
「ホントねえ。……ん?戻って来たかな?」
 ギィィイイ、バタン。
 犬、ではなくズブネズミが舞い込んで来た。
「美夏ちゃん、やっぱ泊めて」
「はは……」
 ……さて、布団は二人分。

「ねえ、京ちゃぁん」
 命名騒動の一件が収まった深夜一時の暗がりの中、蝋燭の灯りに三つの大きな
影が壁に伸びていた。オレンジ色の図太い蝋燭はしかし、確実にその命を失って いく。蝋燭が幻想的に見えるのは、実はそのせいかもしれない、などと京華は思 ってみたりする。
「何?」
 しかし、だ。こんなに素敵な雰囲気の中で、ごうごうといびきをかいて寝るや つの気が知れない。
 結局というか、当たり前だが、啓吾がお客様用の布団で寝ることになり、美夏
と京華は美夏のベッドで横になっている。
「うん、その……さっきの、ことだけどね、…あ、仔犬の名前のこ と」
「うん?」
「ホントに私が付けるの?」
「…なあに言ってんの。アンタが拾ったんでしょ?アンタが飼い主なんでし ょ?」
「…うん」
「じゃああれこれ考えることないじゃない。アンタの思った通りの躾をしな。ア ンタの思った通りの名前を付けな。他の名前が良くなったら途中で変えたってい いんだ。」
 言い切って、美夏の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「まあ、『ここあ』じゃ、アンタは不本意かも知れないけど、一時しのぎみたい なもんよ」
「一時しのぎ………。よし、決めた!」
「き、決めたって、何をよ?」
「名前よ名前。あの仔の名前。『しのぎクン』に決定〜〜」
 また大した名前だこと。



しのぎは、仮設の仕切りの中で静かに寝息を立てていた。

 時は経ち十一月。また性懲りもなく雨だ。髪が重い。

 しとしと。
      じとじと。
           かつかつ。
                こつこつ。
                     みゃあ〜。
                          みゃあ〜。
                     しとしと。
                じとじと。
           みゃあ〜。
      みゃあ〜。
 みゃあ〜。

 マンションの入口にはあの時と同じように、段ボール。
覗き込む。


「ウチにおいで」





 やはり三回目のコールで出た。
「京ちゃん、今、来れる?」
「OK。今日は着替え持って行くから」

「みゃあ〜〜〜」
 さてさて、今度はどんな名前が付くのやら。





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