佐久野弥景―sakuno mikage―


Quel est ton nom?


しとしとしと。

   じとじとじと。

     かつかつかつ。

       こつこつこつ。

あーあ、もう10月半ばなのにどうしてこんなに雨が降るんだろう。


心の中で不平を言いながら、美夏はマンションを目指す。今日はサークル仲間と呑みに行く約束だ。急いで帰って支度をしなくてはいけない。

「今日何着ていこう」

天気と精神状態が相俟ってどんなに『しとしとじとじと』でも、怒鳴り声に『怒』がこもらない。いわゆる温室育ちというやつだ。



美夏の住まいは家賃6万円の、そこそこのマンションで、管理人と父親が学生時代からの親友というコネで、本当は部屋が一杯だったのだが、向こうの尽力でどうにか手に入れることができたところだった。

それだけに思い出深く(本当にあの時は大変だった。大学は後期日程まで粘ったのでマンション探しはギリギリのギリギリだったのだ。)、そして何よりありがたいことにとても住みやすいところだった。


しとしとしと。
      じとじとじと。
            しとしと。
                じとじと。

雨はまだ止もうとしない。

かつかつかつ。
      こつこつこつ。
            かつかつ。
                こつこつ。

ヒールの音が雨音と不協和音を奏で始めた。

しとしと。
     じとじと。
          かつかつ。
               こつこつ。
                    くぅーん。
                         くぅーん。
                    しとしと。
               じとじと。
          くぅーん。
     くぅーん。
くぅーん。


「……ん?『くぅーん』?」


立ち止まったすぐ脇の、ピーマンの段ボール箱。覗き込んだ。


自分の部屋、401号室に戻ってバッグから携帯を取り出し、発信履歴の一番上を確認してから発信ボタンを押した。コールは3回目の途中で切れた。
「はい、もし〜?美夏?どしたの」

口振りとは裏腹に責任感の強そうな、大人びて落ち着いた京(けい)華(か)の声。この声を聴くと美夏はいつもほっとする。

「うーん……何て言うか、…今、来れる?」
「?…う、うん。……じゃ、今から行くね?(何となく嫌な予感。)」
もったいぶった口振りの美香に、京華は少し怪訝そうに答えた。



バスタオルに包まれ、小刻みに体を震わせていた。
「くぅううん」


「ええと、これは」
美夏に突然呼び出された京華は、部屋に到着するなり声を失った。
「犬だけど?」

 ピシンッ。

「あたっ!何?何でわざわざデコピンなんてすんの?!」
息巻いた美夏だったが、京華には美香と同じ位の(種類は別物だが)怒りと呆れが混沌と渦巻いていた。

「あのねえ、何でわざわざこんなの連れ込むの?」
「…何でって、かわいいじゃない?」「バカ」
「ひどーい」
「ひどかないわよ。だってあんたが一番分かってるでしょ?落ち着いて考えてみな?」

人差し指をあごに当てながら、美夏は考えた。考えた!考え抜いた!

「はっっ!そうか!」

そして素っ頓狂な声。京華は頭を抱えずにはいられなかった。
「やっとわかったか…」

「ここ、ペット禁止だ!」

「そこじゃねえよ!ん?いやむしろそこも!?」
そこでふと、美夏が止まる。
「あれ…違うなぁ、ここはOKだったっけ。自己責任でお願いしますって」
「ああ!?違うのかよ!」
「京ちゃんリアクションでか過ぎ」
「アンタのせいでしょうが!アンタの!そもそもアンタが…」
そこまで言って突然首を横に振り出した。
「ってダメだぁ。美夏相手にキレても意味ないや。…あのねえ美夏、アンタ『動物アレルギー』でしょうが」「え?違うよ」即答。
「!?違わかないでしょ?アンタ犬とか猫とかに触った後、じんましんとかできるでしょ?鼻が詰まったり、目がかゆくなったりするでしょ?」
暫く黙り込んでから。


「ああ、それならあるかも!」
「それをアレルギーって言うの!」「ええっ!違うよぉ」
「違わかねえだろぉ?!」
「違う」
「……目、かゆいでしょ、今」
「うん。かゆい」
「やっぱアレルギーじゃねぇか!」
「京ちゃん男みたい」
「テメエのせいだテメエの…」「くうぅぅん」
ピリピリした空気を感じ取ったのか、仔犬が仲裁に入ってきた。京華はそれを横目に見る。子犬の潤んだ瞳には、歪んだ自分が映っていた。じぃっと見入った。

「美夏…」

「ん、何?」
「この仔私にちょうだい」「ダメ」「早っ」
「ダメに決まってるじゃぁん、何考えてるの?」
「だってかあいいじゃん」
タオルごと抱き上げる。
「ねぇっ」
「『ねえっ』じゃないよぉっ!この仔は私のなんだから!欲しかったらどっかでひろってくれば?」
美夏にしては激しい剣幕で、予想外のリアクションに京華はたじろいでしまった。
「じょ、冗談だってば。うんうん、この仔はアンタの物だよ」

「ていうか、アンタの中では犬は拾うものなの?」と激しく言いたかったが、腹にしまい込んだ。というのも、別の疑問が頭をもたげてきたからだ。
「ねえ、美夏」
「何?京ちゃん」
「アンタ、もしかしてこの仔を見せるためだけに私を呼んだとか……?」
京華が尋ねると、美夏はうーん、と首をひねってゆっくり絞り出した。
「それもある……っていうか、まさにそれっていうか………ええとつまり……」
「ああ!まあいいから、用件だけ教えてくれればいいから」
美夏が極度の優柔不断だったことを今更ながらに思い出していた。私としたことが。
「用件?…うん、分かった。……えっとね、この仔の名前を考えてほしいの」
京華は、帰ってきた返答が(美香の割りに)案外普通だったので大いに安心した。ふふ、この子もこの子なりに一生懸命なのね。
「ふーん、名前、ねぇ」
「そうなの、京ちゃんも知ってるでしょ?私の性格。だからなかなか決められなくって」
そう言ってすがる美夏に、京華はタオルにくるまれている美夏の犬と似た雰囲気を感じ取った。

「むしろアンタのほうが犬っぽいわ」

「?」

この言葉だけではもちろん美夏には何も分からなかったようで、頭上にクエスチョンマークが浮きまくっていた。

「名前、ねぇ」同じ言葉を繰り返す。
「そう、名前」美夏も反復する。
「!よし、決めた」
「何?何?」
美夏の目がきらきらと輝く。
「ケイゴ」

バシッッ!

予想だにせぬ美夏のチョップが脳天に炸裂した。
「いったあ〜〜!チョップはないでしょうが、チョップは」
京華の不満はしかし、美夏には何の効果もなかった。
「もう!まじめに考えてよ!何で京ちゃんのオトコの名前にしなきゃいけないの!?」
「違うって、ケイゴは前の彼氏。今のとは違うの。でもねえアンタ、ケイゴはいいやつだったのよ?今のよりも」
「そんなこと知らないよぉ!じゃあ何で分かれたの?てゆうか京ちゃん、鞍替え早すぎ」
「鞍替えなんて人聞きの悪い!私はいつも新鮮な気分でいたいだけで………」

すっかり自分の世界に入ってしまった京華を見ない振りして、美夏は再び子犬を抱き上げた。
「どうしよう。キミの名前、全然決まらない……」
「くぅぅぅん」

「もう一人ぐらい………呼んでみようかなぁ……」
かゆい目をこすりながら着信履歴を呼び出した。



三十分後。
「美夏ちゃああぁぁん!来たよぉ!」
しかし、その声に一番に反応したのは美夏ではなく京華のほうだった。
「ケイゴ?!何でアンタが…」
「うそ!?京華?お前こそ何で」
「何でって、私は美夏に呼ばれて……」
「俺だって美夏ちゃんに呼ばれて……」
京華はハッとして美香を見る。
「美夏、アンタが最近付き合い始めたのって……ケイゴだったの?」
「ええと、まあ…………そうです」
「じゃあ何でさっき、『京ちゃんのオトコ』って言ってたの?アンタのじゃん!」
「そう、だっけ?忘れちゃった。・・・ね、とにかく上がってよ」

「何か・・・修羅場みたいだな」
「馬鹿言ってないでさっさと上がりなさいよ」
 首根っこを掴まれた猫のように、啓吾は京華に従った。長く付き合っていただけあって、京華も扱いに慣れているようだ。
そして、啓吾もあれと対面した。
「くぅぅん」
「ええと・・・・・・これは・・・?」
「うんうん、やっぱそういう反応するよね、普通。よかった、私たち普通だわ、 ケイゴ」
 涙をぬぐうようなモーションをしながら、啓吾の背中をバンバン叩いた。
「何それぇ?私だって普通だよ?」
「あのねえ、動物アレルギーのくせに犬拾ってくるトコの一体どこが普通なのよ ?」
「そうなの?!美夏ちゃん」
「ズズズ…そうだけど、悪い?」
二人から散々言われたせいか、美夏はすっかり拗ねてしまい、啓吾は対処に困 っているようだった。
「悪くは……ないんだけど、美夏ちゃんアレルギーならその仔僕が預かろうか?」
「嫌っ!絶対に私で飼う!っくしゅっ!」
 そう叫んで、美夏は再び仔犬を抱き上げ、まるで何かの危害から守るように二 人に背を向けてしまった。
「ね、さっきからこんな感じなのよ」

溜息の後、憐れむような同情するような言葉を向ける。啓吾は一度京華に目を やってから、美夏のふて腐れた背中に尋ねた。
「それじゃあ、僕は何をすれば・・・・・・?」
 その問いに答えたのはしかし、京華だった。
「何か、その仔の名前を考えてほしいんだって。そうでしょ、美夏?」
 ゆっくりとこちらに向き直りながら、美夏は黙って頷いた。
子供をあやしているようだ、と京華は思った。
 ホント、大きな子供だこと。

「そういうことなら任せてよ!人呼んで名付け親のケイゴとは僕のこと!!」
ここにもいた、子供。
あーあ、と言いながら、唯一の常識人・日延(ひのべ)京華は嘆息した。
「京華?どうしたの」
美夏は『ちゃん』で私は呼び捨て?言ってやりたかったが、私が三人目の子供になってどうする、という思いでどうにか食い留まった。
「何でもないわ。それより、名前よ、名前」
 名無しの仔犬は、美夏の腕の中でさっきからずっとクンクン云っている。ただ
心なしか様子が違うように見える。
「ねえ美夏?」
「うん?」「くぅぅぅん?」
ついでに仔犬も返事。
「拾って来てからその仔にエサは?」
「あ!まだ何にもだ!」
「くぅぅぅん(ご飯ちょうだい by京華の勝手な推測)」
「だろうと思った。早く何かあげたら?」
「う、うん。何がいいかな?煮干しとか?ズズズズ……」
「あーのねぇ、猫じゃないんだから、猫じゃ。…そうねえ、これだけ小さいならまだミルクでいいんじゃない?ミルク」
 仔犬を美夏から受け取って優しく撫でまわす。さすがに毛は乾かしたようで、恐らく生後間もない仔犬の産毛は、なんとも言いがたいふわふわ感でとても気持ちがいい。
「ええ!?ミルク?私、母乳なんてまだ…」
 ばしこーん!!!!
「いっっったああああい!またチョップぅ?!何で?」
「誰がいつアンタのミルクっつったんだぁ?!普通の牛乳でいいんだよ!普通の!天然も体外にしろこのアマぁ!」
「け……京華が別人だ………(後ずさり)」
「全く!……ぃっ!」
 京華が痛みを感じた箇所――右手人差し指の元の辺り――を見ると、天使のような愛嬌を振りまいていたあの仔犬が、顔中にしわを寄せて、精一杯の力を込めて彼女に噛み付いていた。……全く……。
「美夏」
「え?は、はい!くしゅっ!」

「誰が何といっても、この仔は立派にアンタの飼い犬だ」
「………?」
 わけが分からない、といった風で美夏は京華を見た。……全く、どっちが飼われてんだかよく分からないねえ。
「いいから、ミルク用意してやんな。」
「うん!ちょっと待っててね」
 何とも頼りない飼い主は、廊下の途中にある冷蔵庫へ向かった。
「ちゃんと温(あった)めなよ」
「分かってるぅ!」
 美夏が準備している間、リビングには当然二人しかいない。が、
「………(啓吾)」
「……………(京華)」
「…………………(啓吾)」
「………………………ねえ?」
「へっ?な、何?」
「考えてる?」
 疑い深そうに、京華は啓吾の顔を覗き込んだ。なぜか啓吾は突然慌て出した。
「かかか、考えてない!ヤラシイことなんて考えてない、ない!!!!」
 スパコーーン!!!!!!!
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!」
 圭吾は手元にあったティッシュ箱の餌食となった。あまりに打ち所が悪かったのか、もんどり打って呻(うめ)きながら苦しがっている。さすがにやり過ぎたかも知れない。
「やだっ!ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「ど、どうにか」という意を込めて、うつ伏せたまま右手を挙げる。
「で、でも、アンタもアンタだからね!」
「何が?………ィテテ…」
 復活した圭吾は頭のてっぺん辺りを擦(さす)っている。どうやら脳天に直撃したようだ。ティッシュ箱の、角が。
「何でこの状況でそういう方向に話が向かうのよ?名前よ名前、この仔の、なぁまぁえぇ」
 美夏に対する敵意(少なくともこの仔犬が感じた)が無くなったせいか、さっき付けた傷を、今度はぺろぺろと舐めてくれていた。毛の感触だけでなく、この感覚も、くすぐったいながら気持ちがよかった。
 ああ、そうか!と大仰に答える啓吾。……本当に私は数ヶ月前までコイツと付き合ってたの………?
「名前かぁ。そうだなぁ……。じゃあ『みるく』にすれば?!」
「………案外いいかも。よし、じゃ、それは第一候補ね。ハイ次!どんどん行ってみよう」
 手近の新聞広告群から、裏の白いものを取り出し、手持ちのボールペンで『みるく』を記入した。
「次…ねぇ?……『るくみ』………?」
「…何、それ」
 危うく書きそうになってどうにか踏みとどまった。
「いやぁ、『みるく』の『み』を後ろに……」
「却下。もっとまじめに考えな」
「うーんとねぇ……じゃあ」
「『くみる』も却下」
「何でぇ?」
「小学生じゃあるまいし、もっとマシなの考えてよ。『名付け親のケイゴ』はどこへ行ったの?」
「そ、そうでした!いや、『名付け親のケイゴ』は此処(ここ)に在りぃ!」
「そうそう、その意気よ!(あー、疲れるわ)」
 どういうわけか、啓吾は自分の頬をパンパンと叩いた。……何に対して気合を入れてるの?
「…そうだなあ、『みるく』と来たなら、『ここあ』とかは?」 「あ!それいい!何かあったかそうだよ!」
「じゃあねえ…これなんかどうかな?」
「それもいい!『名付け親の(以下略)』本領発揮ね!」
「これは?!」
「ああ!それカワイイ!」
「…………?」
「……………!!!」




 程なくして広告の裏は犬の名前案で埋め尽くされた。二人の中には、もう一種の達成感すらあった。いい汗かいたわ、みたいな。




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